自分史 小学校

小学校は、家から遠く小学生の足では2時間もかかるほどの遠距離でありました。

そして、小学校に行って始めて気がついたのが 「我が家は それほど裕福ではない。」ということでした。

木造の小学校だったので、皆が上履を履いていましたが、自分は上履きを持っていませんでした。もちろん家でも常に裸足

でしたから、何の不都合も感じませんでしたが、何故みんなが上履入れを持って学校へ行くのか不思議でしょうがありませんでした。

我が家が貧乏だった理由は、農家と言っても「開拓農家」だったのです。どこの開拓かと言うと、干拓地の開拓だったのです。

福島県には、かっては多くの入り江があり、戦前からその入り江を埋め立てし水田にする事業が行われました。

子供のころから、 「蒼海[そうかい]転じて美田となす」という言葉を聞かされていました。

自分の育った福島県の北端の相馬地方には新沼浦と松川浦の二つの入り江があり、新沼浦が干拓されることになりました。

県の記録によると

地蔵側流域の産業は、大正9年から始まった新沼浦.の干拓 事業 により広大な水田が開田されたことにより、稲作などの農業が主要産業となった。

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この事業は、

1966(昭和41)
●国営三本木開拓建設事業完成(大規模、昭12~41)農地造成9794haほか(昭18~22は営団施工)[青森]
●国営新安積開拓建設事業完工(大規模、昭16~41)農地造成2072haほか(昭16~22は営団施工)[福島]
●新沼浦干拓工事が相馬市新沼浦で完了[福島]


記録によると、昭和41年まで続いたようです。もっとも平均的なお米の収量になったのは 事業の終わる昭和40年ころ

からで それまでは苦しい生活をよぎなくされたようです。

それでも、子供にとっては自然豊富な天国で、西にそびえる鹿狼山が心に残る山でした。

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ところが大きな問題は、やっと生活が安定した昭和46年には 次の計画が持ち上がるのです。

昭和 46 年から構想着.手された相馬地域開発事業による相馬中核工業団地が この干拓された水田一帯の買収が始まったのです。







昭和文学全集〈26〉
小学館
吉村 昭

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